おぼろげ坂

おぼろという人の日記。上がってるのか下がってるのか。分からないけど、あろほもーら。

愛すべきろくでもない自分

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朝6時のちょっとした田舎町を歩く。前の日の夜からカラオケボックスに入り浸って、友人たちの歌声を聴いてうつらうつらしていた。睡眠用BGMにしてはうるさかったが、僕が歌うよりは遥かに上手いし悪い気分じゃなかった。時間が来て店から外に放り出されたときは冷水をぶっかけられたように一気に目が覚めた。実際ものすごく寒い。朝6時だ。帰路を歩く。「こんな朝から何してんのよ?」とおばあさんに声をかけられる。家に帰ってるんです。えっ? 家にかえってます! あんた高校生か? 違います! これからどうすんねんな? 決めてないですね。 えっ? まだ分かんないです! えっ? 

 

 

言葉数に頼るな。

30分ぐらいだったかな、僕はそこで会った傘を杖にしてヨレヨレと歩くおばあさんと一緒にいた。前に進むことなんて二の次だと思えるようなペースで一緒に歩きながら話をした。話をした、と言ってもそれはギリギリ会話になっているかいないかのようなチグハグなやりとりだった。おばあさんは耳が遠い。簡潔に、かつ大きな声で話す必要がある。言葉の数じゃないんだ。大雑把でもなんでも、くっきりとした一言を発することに集中した。どうだろうか、僕はその瞬間、自分に足りていないものをまざまざと見た気がしたんだ。誰かが言ってた。上手い文章を書く奴ってのは、嘘が上手い奴のことだ。(見ての通り、それは僕のことじゃないけどね)

 

理論で身の回りを固めるために、あるいは綺麗に心の内を語るために、僕は自分の辞書に言葉を覚えさせることに躍起になろうとしていた。一言に意識を集中させると、「どうせなら」とばかりに自然とそこに心が込められるのを感じる。あぁ、僕に必要なのは多様な言葉よりも、一言一言に心を込めることなんだなぁと思った。ただ言葉を並べるだけでは不充分だ。やっと分かった気がした。捉えどころのないなんとも言えない物事、心情なんかをバシッと的確に捉えることのできる言葉を知っていたとしても、そこに心が無ければ決して「伝える」ことはできないんだって。話し相手が「不都合なく聞こえる耳」を持っているかどうかなんてのは問題じゃないんだ。むしろ、ちゃんと聞こえてる【伝わっている】という錯覚があると僕らの言葉は無駄に難解で乱雑で無機的になり、核心から離れていくんだと思う。

 

 

愛すべきろくでもない自分

自分の傲慢さに、無力さに、最近やっとぶち当たった。本当の大人の階段ってのは、多分、一段登るごとに服を1枚剥ぎ取られる的な感じのシステムになっていて、自分を暴き、暴かれないことには上に上がれないんじゃないかな思う。頭の中で「できる」とタカをくくってたものは大抵できない。初めて音楽にハマったとき、「俺の人生はミュージックだぜ」みたいな気分になり、その後に友人達と行ったカラオケで絶望した。今でも上達はしてない。なのにまだ「俺は歌が上手い」と真剣に思うことがある。大体僕はそんな感じだ。僕は見事な虚栄心を持った実にからっぽな人間だ。そうだ、恋愛がしたいなと思った。欲しいのは彼女じゃないかもしれない、「からっぽの僕」だけを愛してくれる誰か。人間は弱いが、その弱さ愛することは強い。このろくでもない自分を愛することが必要だ、と何か大きなものに言われてる気がする。

 

 

おぼろ

 

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愛すべきろくでもない自分 【3/26 おぼろげ坂】