おぼろげ坂

おぼろという人の日記。上がってるのか下がってるのか。分からないけど、あろほもーら。

おぼろげな日々

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こんにちは、おぼろです。ちょっと更新がお久しぶりになってしまいましたが、特に理由は無く普通に日常を生きていました。

 

普通すぎて何も書くことが無かった、と言えばそれが理由になるのかもしれない。

 

 

問題は、この期間に僕が文章を書きたいと思わなかったところにある。

 

 

僕は風呂に入る、歯を磨くのと同様に毎日必ず文章を書くようにしてたんだけども、最近は糸が切れたようにぷつりと書くのを辞めていた。

そして書きたいとも思わなかったし、今だって別に「少し間を置いたら急に文章を書きたいと思った」的なことでもなく、ただ「書こうか」とだけ思って書いてるんだ。

 

そのことは僕を少しばかり驚かせた。だって、僕は好きで文章を書いてるんだと思ってたからね。

 

よく考えてみると、好きだからやってることなんて実はほとんど無くて、なんだかんだあった結果やると決めてやってるだけのことがあるということに過ぎないんだろうなと思った。

 

 

世間では人々が「ロボットに仕事が奪われていく!だから好きなことをやって生きていく時代だ!!」なんて話を、そうしゃべるようにプログラミングされたロボットかのようにしてる。

変なかんじだ。

 

 

 

おぼろ

 

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僕らは最初から開花してる。必要なのは、閉じないことだけだ。

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直感的に「いまは(自分的にいろんなことの)風向きが良くないな」と思ったので、ちょっとしたひとり旅に出た。奈良から出発し、とりあえずの目的地は横浜。横浜に会いたい人がいるんだけど、これといった約束はしてないから辿り着けなくても問題はナッシング。移動手段はヒッチハイクなんだ。要するに、運が良ければ辿り着けるが、悪ければ辿り着けないってだけの話。横浜行きの新幹線に乗ったとして、運悪く横浜には行けませんでした、みたいなことがどのくらい起こるだろうか。どうせ約束も無いなら僕は「運良く来れました」のほうが、移動という行為そのものを楽しんでいるようで胸が踊る。運に運ばれて踏みしめた土地をダイレクトに感じる。じゃあ、交通費をケチることについての弁明はこのくらいにしとこうかな。

 

oboro-arohomora.hatenablog.com

 

お金を使わない旅ほど、やたらと豪華である。

旅の結果発表をすると、横浜にはぜんぜんまったく到達しませんでした。三重県を経由して愛知県春日井に着いたまでは良かったんだけど、そこから乗せていただいたパキスタン人の男性の方に岐阜のご自宅(?)に案内してもらい、お手製のカレーとナンを振舞ってもらって満腹になってる間に時間的に厳しくなったので諦めた。イスラム教を学ぶといいよ、と言われた。イスラム教には「旅人をもてなす心を持ちなさい」という教えがあるみたいだ。目的地には辿り着けなくても、あぁ、僕は運がいいなぁと思った。

 

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カラオケボックスで一泊して翌日、関西方面に向かう車を探してたら、旅行中の女性の方に巡り合い滋賀県まで送っていただけることに。5歳の男の子と、その母親だった。男の子【Y君】はありえないほど元気で、車の中で一緒に遊んでるうちにすっかり仲良くなってもらえた。お母様は言う。「この子が元気すぎて毎日私がクタクタになるぐらい。でもそれが何よりも嬉しい」 ものすごいかっこいい女性だったなぁ。

その後、まさかの旅行先の滋賀の美術館にまで連れて行ってもらい、カフェやらランチやら全てお世話になってしまった。Y君は美術館を破壊する勢いで走り回り、叫び、大きく笑う。「もう何言ってもダメで。。信じられないでしょこの子」やれやれと笑うお母様はとても幸せそうだった。Y君は親を一生懸命笑顔にしようとして、お母様も、もちろんそれを分かっていた。お世話になりまくった2人と別れる際、必ずまた会う約束をして、何故かすごくお礼を言われた。

 

 

 

僕らは最初から開花してる。必要なのは、閉じないことだけだ。


Y君を見ていて痛切に感じたことがあるから、それを書いて今日の記事を締めくくろうと思う。とは言っても上手く説明できるかはアレなんだけども、なんというか、「俺はジジイかよ」と思ったんだ。なんで僕らはすぐにジジイ臭くなっちゃうんだろうか。圧倒的なまでに遊んでいる子供を見て「あぁ、俺にもあんな時期があったなぁ」なんて言ってる場合じゃないんだと思う。老いてるぞ!気付け!! Y君は面白い音や、奇想天外な造語を作る。おぼろ的には、『仮面ライダー豚肉そば』っていうヒーローをY君が考案したときは笑った。昔自分が作った段ボールロボットをふと思い出して、それこそ「俺にもそんな時期があったなぁ」なんて思ってしまった。

 

多分誰でも、幼少期はそれぞれに全く別の宇宙が広がってるんだと思う。生を受けた瞬間に起こったビッグバンによる宇宙。それこそがクリエイティビティの源泉なんじゃないかな。ようするに、僕らは最初から【開花している】ということになる。ビッグバンから宇宙は拡大し続けるべきだけど、僕らは逆にその宇宙を閉じ、終焉させる。だって誰にも分ってもらえないからね。でも「面白い」っていう感情は、「分かる」と「意味不明」の境界線あたりから沸く。Y君の意味不明さが面白かったのは、間違いなくY君が尋常じゃなく楽しんでいたからだ。楽しさは必ず伝わるんだと思う。多分、自分の宇宙を閉じることなく楽しみ続けることが、生きる上でのミッションじゃないのか的なことを思った。うん、いい旅だったな。ちゃんと奈良には帰ってきたよ。

 

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僕らは最初から開花してる。必要なのは、閉じないことだけだ。【3/29 おぼろげ坂】

 

愛すべきろくでもない自分

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朝6時のちょっとした田舎町を歩く。前の日の夜からカラオケボックスに入り浸って、友人たちの歌声を聴いてうつらうつらしていた。睡眠用BGMにしてはうるさかったが、僕が歌うよりは遥かに上手いし悪い気分じゃなかった。時間が来て店から外に放り出されたときは冷水をぶっかけられたように一気に目が覚めた。実際ものすごく寒い。朝6時だ。帰路を歩く。「こんな朝から何してんのよ?」とおばあさんに声をかけられる。家に帰ってるんです。えっ? 家にかえってます! あんた高校生か? 違います! これからどうすんねんな? 決めてないですね。 えっ? まだ分かんないです! えっ? 

 

 

言葉数に頼るな。

30分ぐらいだったかな、僕はそこで会った傘を杖にしてヨレヨレと歩くおばあさんと一緒にいた。前に進むことなんて二の次だと思えるようなペースで一緒に歩きながら話をした。話をした、と言ってもそれはギリギリ会話になっているかいないかのようなチグハグなやりとりだった。おばあさんは耳が遠い。簡潔に、かつ大きな声で話す必要がある。言葉の数じゃないんだ。大雑把でもなんでも、くっきりとした一言を発することに集中した。どうだろうか、僕はその瞬間、自分に足りていないものをまざまざと見た気がしたんだ。誰かが言ってた。上手い文章を書く奴ってのは、嘘が上手い奴のことだ。(見ての通り、それは僕のことじゃないけどね)

 

理論で身の回りを固めるために、あるいは綺麗に心の内を語るために、僕は自分の辞書に言葉を覚えさせることに躍起になろうとしていた。一言に意識を集中させると、「どうせなら」とばかりに自然とそこに心が込められるのを感じる。あぁ、僕に必要なのは多様な言葉よりも、一言一言に心を込めることなんだなぁと思った。ただ言葉を並べるだけでは不充分だ。やっと分かった気がした。捉えどころのないなんとも言えない物事、心情なんかをバシッと的確に捉えることのできる言葉を知っていたとしても、そこに心が無ければ決して「伝える」ことはできないんだって。話し相手が「不都合なく聞こえる耳」を持っているかどうかなんてのは問題じゃないんだ。むしろ、ちゃんと聞こえてる【伝わっている】という錯覚があると僕らの言葉は無駄に難解で乱雑で無機的になり、核心から離れていくんだと思う。

 

 

愛すべきろくでもない自分

自分の傲慢さに、無力さに、最近やっとぶち当たった。本当の大人の階段ってのは、多分、一段登るごとに服を1枚剥ぎ取られる的な感じのシステムになっていて、自分を暴き、暴かれないことには上に上がれないんじゃないかな思う。頭の中で「できる」とタカをくくってたものは大抵できない。初めて音楽にハマったとき、「俺の人生はミュージックだぜ」みたいな気分になり、その後に友人達と行ったカラオケで絶望した。今でも上達はしてない。なのにまだ「俺は歌が上手い」と真剣に思うことがある。大体僕はそんな感じだ。僕は見事な虚栄心を持った実にからっぽな人間だ。そうだ、恋愛がしたいなと思った。欲しいのは彼女じゃないかもしれない、「からっぽの僕」だけを愛してくれる誰か。人間は弱いが、その弱さ愛することは強い。このろくでもない自分を愛することが必要だ、と何か大きなものに言われてる気がする。

 

 

おぼろ

 

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愛すべきろくでもない自分 【3/26 おぼろげ坂】

僕は好きなようにぶん回すから、世界も好きなように回れよ

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純粋な気持ちっていうのはたまに残酷だ(恋の話じゃない)。自分で大事に持っている分には温かくて安心感を纏っているんだけれど、人に伝えようとすると急に雲行きが怪しくなる。伝えたい相手めがけて振りかぶって投じたものの、弾き返させれたらまだ良いがよけられたときには弱る。受け止める勇気も弾き返す勇気も持ち合わせていない人は、何事も無かったかのようにおしゃべりをする。そういう人は、口をパクパクさせてるだけで言葉なんて発していない。。この感覚、伝わったでしょうか。

 

 

正直者にはドラマが。

純粋な思いをよけられたら悲しい!けど、その中にもたくさんの気づきがある。「あ、よけられるんだ」とか。投げてみるだけで何かは変わるみたいだ。そうやってちょっとずつでも正直にならないと、驚くほどなんにも起きないんだ。今日何をやってたかすらも思い出せなくなるかもしれない。そんなつまらない気分のとき僕は思う。ドラマが足りてないぞ!って。ドラマと言ってもそんな大層なものじゃなくて「ずっと思ってたけど言えなかったことを友人に言ってみたら勃発した口喧嘩」とかでもいいと思う。これは僕があんまり良い人じゃないことを示唆してるみたいだけど、自分的に良い発見やら言葉が湧く時って、誰かと口論になってる最中だったりするから口喧嘩は僕にとっての好機だ。それは、閉じてた頭の中の扉が、思わぬ拍子にパカっと開いてそこに新鮮な風が吹き抜けるような。

 

表面を取り繕って生きると退屈が待ってる。正直になるとドラマが起こりやすいんだと思う。ほんの少しの勇気で吐き出した短い言葉でも、現実を突き動かし思わぬ展開を見ることができる。ほんの少しの勇気でいいんだと思う。いずれにしても、「面白いことないかなぁ」なんて呟きながら無難に生きてたってどうにもならない。自分の人生を躍動させるには、自分の思いに真っ直ぐな行動なり言葉なりを発する必要がありまくるんだと思う。時には誰かを傷付けてしまうことも否めないが、それも誰かのドラマを動かしたとも言えるんじゃないだろか。おぼろ的には、挨拶と「ありがとうござます」にありったけの気持ちを込めることができれば、まぁある程度の言動は結果的に許されるしなんなら愛されるという仮説がある。

 

 

僕は好きなようにぶん回すから、世界も好きなように回れよ

そもそもなんで正直でいることに勇気が必要なんだろうか。何がそんなに怖いんだろう。嫌われることか。笑われることか。今まで不具合も無く良い感じに回っていた何かが、自分のせいで回らなくなってしまうことか。あなたは一体なんの均衡を保とうとしてる?どんなに悩んでも、どんなに空気を一生懸命読んでも、世界は勝手に回っていくし時間は過ぎていく。物事は進む。と、いうことに僕は、遅ればせながら最近気づいたんだ。世界は好きなように回る、だから僕は「自分」を好きなようにぶん回すんだ。僕にはなんの均衡も保てやしないし、臨んだところで世界は変わってくれるわけじゃない、隣にいる人が思い通りの行動をしてくれるわけじゃない。「勝手にしなさい」って感じだ。その代わり僕も好きなように生きるから。勝手に生きながら、勝手に回っている世界を見ているのは案外、悪くないんだと思う。

 

 

おぼろ

 

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僕は好きなようにぶん回すから、世界も好きなように回れよ 【3/20 おぼろげ坂】

 

意味や目的は、さがすものじゃなく邂逅するものだ。

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大学生の人と一緒にドリアを食べる機会があった。その人は、どうしようもなく「なんかやりたい!」という衝動はあるんだけれど、いざその正体を考えると、何をするための衝動なのか分からないと言う。話を聞きながら、「そうだよなぁ」と思った。僕にも同じような気持ちがある。明確な目的を持って物事に取り組んでいる人はすごいと思う。僕には何かそういうものはあるだろうか、胸に手を当てて考えてみた。なるほど。分からん。何故ブログなんか書いてるんだろうか。

 

理由を探せばいくらでもでてくるんだけども、でも全部違う気もする。一週間連続で「何故書くか?」って質問されたら、毎日違う答えを言いいそうだ。今日の答えは、そうだな、「クールな奴だと思われたいから」でいこう。僕は気の許せる人に会った途端に、自分の話を聞いて欲しくてしょうがなくなる。思ったことは取り敢えずどこかに吐き出さなくちゃいけない気分になるんだ。でもそれだと、うるさいおしゃべりな奴になってしまうからおそらく誰も見てないであろうブログに吐き出しといて、あとは灯油の切れたストーブみたいに沈黙する。超クールだ。

 

 

 

ガラクタを拾い集める

取り敢えず毎日文章を書いてる。僕に職業はないし、学校なんてもちろん行っていない。本もあんまり読まずに生きてきた。不思議なもので、いかにも書くことすらなさそうなこの僕にでも文章は書けるもんだ。書くことは日々の中に溢れてるし、わざわざおっきなテーマをかかげなくても勝手に湧き出る。あるいは、文章を書くことはガラクタを集めるということなんだとも思ってる。余った野菜で簡単なサラダを作っちゃいましたの如く、なんかその辺に落っこちてるものを拾い集めて形にしてみると「俺は昔からこんなのが作りたかったんだ!!」的なものができてしまったりする。案外、なんだってそういうもんなんじゃないかなと思う。

 

逆に「俺はこれで行く!」って確固たるものを背負って意気込む人ほど、その重さによろけて勢いを失くしてしまう場合もあるんじゃないかな。「自分は何も持ってません」と言う人は結構いるが、彼ら(僕も)に必要なのは「使命」的なものよりも、何かを始めるのにもっともらしい理由よりも、決意よりも、ただ、ガラクタなんじゃないだろうか。たまたま目の前に落ちてたガラクタと睨めっこできるかどうか。いっちょ乗っかってみれるかどうか。何年前かの中学生時代によく聴いていた一曲のレゲエソングで、アーティストが音楽を始めたときのことをいい感じに歌ってる歌詞があります。

 

 


何をやっても三日坊主 いつも言われる さぼり上手
また同じ日々を繰り返す 明日やるってまたごまかす
このままじゃ何も変わらない 何がしたい? それすらもわからない
こんなはずじゃない 子供みたいって このままじゃ 危ない

でも突如、自転車見つけたかなり大きな 足は着けへんわまぁ乗ってみようか
ってな感じだ始めた理由は 行けるとこまで行ってみようかな
だが簡単じゃねえな ここで止まるわけにはいかねぇわ
足はパンパンではちきれそうだ 降りたら負けだなんて分かるわ

 

 

 

意味や目的は、さがすものじゃなく邂逅するものだ。


もうなんか、意味とか、目的とか、そんなのはどうだっていいんだと思う。後から考えればそれっぽいのが見つかるんだ。自分は何をするために産まれてきた?なんて考えだしたらキリが無い。たまには考えたくもなるけどね。言うなれば死ぬためであり、戦うためであり、誰かを幸せにするためであり、ラーメンを食べるためでもある。いろんな瞬間に、「このためだったのか!」って思う。僕らは、自転車を見つけたら乗って、漕げばいいだけのことだ。道中、素晴らしい人や、反吐が出るような人、仙人みたいな人に出会う。美しい景色を見る。おいしい食べ物屋さんを見つける。「このための自転車なんだな!」って思う。あるいは、自転車なんてくだらないから捨てて歩く。そういう感じでいけばいいんだと思う。意味や目的は、探すものなんかじゃなくて、邂逅するものなんだ。

 

おぼろ

 

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意味や目的は、さがすものじゃなくて邂逅するものだ。【3/12 おぼろげ坂】

 

俺が俺でなにが悪い~This is me !!~

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ローソンで買ってきたカップラーメンを食べるため、ヤカンに水を入れて火をつける。いつも問題になるのが、沸騰するまでの時間をどう使うか、だ。一日中平気でダラダラしてられるくせに、こういう隙間の時間ができると「仕事ができる人の時間活用法」みたいなのを意識しだします。僕は、レジ袋から食後のデザートに食べる予定だったカスタードたい焼きを取り出し、一瞬の迷いもなく食した。幸せだ。おぼろです。

 

 

人生のあらゆる問題は人間関係に起因する

カスタードたい焼きがおいしいというだけで十二分に幸せになれるが、人生はそんな簡単にほくほくした顔のまま歩き続けることを僕らにさせてはくれない。あるいは、愚かな僕らは勝手に幸福を忘れて自滅してしまう。「おいしい」っていう最高にシンプルで最高に美しい幸せが、他人からの言葉一つで軽く吹き飛ぶこともあるからだ。アドラーは、人生のあらゆる問題は人間関係に起因すると言う。人は1人では生きていけないけど、周りに人がいるという状況に威圧されて縮こまったり、耐えられなくなったりすることは僕自身本当にある。冷静に周りを見ても同じような人はたくさんいて、みんな、人の目を気にしながら自分が自分であることに怯えてる。

 

自分はどうしようもなく自分だ。こいつで生きていくしかないのに、(いや、だからと言ったほうがいいのかもしれない)内に秘めた本当の自分よりも、鏡にうつる自分、人の目に写る自分のほうに気をとられるものだ。嫌われたり、バカにされたり、笑われたり、そういう自分に向けられた刃は全部、自分一人が受け止めなきゃいけないから。いくら隣に仲間がいたって、気持ちを分かってくれるわけじゃない。そりゃ怯えて当然だとさえ思う。ところで先日、とあるきっかけで目にした動画に心が震えました。「これなんだよぉぉ!!」ってなったので、みなさんにも是非一回最後まで見てほしい。

 


ヒュー・ジャックマンが感極まり涙 『グレイテスト・ショーマン』「This Is Me」ビハインド・ストーリー映像

 

ご覧いただけたでしょうか。言葉にする必要もない(というかできない)美しすぎる感動だと思う。ただいま絶賛上映中!のミュージカル映画グレイテスト・ショーマン」で使われている曲だそうで、「こりゃ映画も見にいこう!」な気分になり速攻で映画館へ。スクリーンを前に、じ〜んとしてきた。多分、今日のおぼろげ坂で伝えるべき内容はあの動画に全て詰まってるような気もしなくもない。(まぁ、もうちょい書くんだけども)

 

俺が俺でなにが悪い~This is me !!~

大小の差はあれど、ほとんど全員がどこかで傷を負いながら生きてるんだと思う。他人はときに容赦を持たずに僕らを目で殴りつけ、言葉で切り刻む。たとえ自分の身にそんなことが起こっていなくとも、その光景を見れば目に焼き付き、手枷足枷になって身動きがとれなくなる。リアルでもネットでも、自分を主張する人によってたかって暴力を振るい、みせしめのように「お前もこうはなりたくないだろ」って脅してくるんだ。こんな世界にいたら、自分を見失ってしまって当然だ。別に「世界」のほうだってただこうしたいわけじゃなくて、人間一人一人がそれぞれ怯えて自己防衛してる結果にできてしまっただけ。だからこそ、だからこそだ。そんな世界の中で圧倒されるほどに自分を曝け出し、躍動し、そしてそれぞれがお互いを認め合っているように感じられるあの動画の中の空間が眩しくてしょうがないんじゃないかな。


「自分を見失うな!」と言われても、まぁそれはなかなか難しい。自分で自分のことなんて見えやしない。自分を見失っても、「おいしい」を忘れてしまっても、揶揄中傷の類を浴びせられても、そんなときに良い音楽とか、良い映画、そして居場所になってくれる人がそばにいれさえすれば、己のあるべきところに引き戻してくれるはずだと思う。そうやって僕も少しずつ自分の足で立てるようにはなってきた。もし僕の存在自体を否定してくるような輩が目の前に現れたら中指を立てて言ってやる。「俺が俺で何が悪いんだよ」って。喧嘩になったら盛大に逃げよう。考え方の違いからくる批判や、人の話はちゃんと聞かなきゃならないときもあるけど、最終的には「これが私だ」って譲れないもを貫き通せばいい。自分を卑下することも、誰に謝ることもせずに、ただ胸を張って生きていけばいいんだと思う。

 

おぼろ

 

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俺が俺でなにがわるい〜This is me !!〜【3/9 おぼろげ坂】

 

 

 

 

木登りのできない猿こそ全ての始まり。

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ハジメマシテ!

簡潔に自己紹介を。

ブログ【おぼろげ坂】に奇跡的に訪れてくださった皆様へ。まずは自己紹介をさせていただきます。初めまして!「おぼろ」と言います!ぶっちゃけ名前なんてどうでもいいので、おぼろでもそぼろでもなんでも覚えてくださればそれで幸せの極みです!男か女かで言えば男にあたります!職業はございません!年齢は忘れました!奈良県で暮らしてます!好きな食べ物はラーメンです!以上!はい。自己紹介が終わりました。このブログは、僕、おぼろという人間の日記、随筆的なものになります。読むとあなたの人生に役立ったりは、するのかどうか。。分かんないけど、もしかしたらこんな僕でも何かを与えることができるのかもしれないという希望から僕は書きます。

それともう一つ、生きづらさから僕は書きます。これを読んでくれているあなたは、現実の世界で、言いたいことを、言いたいときに、言いたかった形で口から放つことはできますか。僕にはそれができない。人の前に立つと緊張するし、言いたかったことを言おうとしたら整理がついてなくてアレだし、目は泳ぐし、声はすぼむし、あれ、何が言いかたったんだ。まぁ、分かってくれたかもしれないけど、僕は「簡潔に話す」ことができません。言いたいことはは右往左往するし、これからこのブログを読み続けてもらえれば分かると思うけど、僕は自己矛盾の塊のような存在で、とにかく不確かだ。ぼんやりしてて、それこそ「おぼろげ」だ。だから、何かにつけて「はっきりしろ!」と迫ってくるこの世の中が生きづらい。日々の思いを綴ることで、この【おぼろげ坂】というブログが僕の居場所になればいいと、そう思います。どうぞよろしくお願いします。

 

 

あろほもーら。

いつの頃だったか、僕は寝る前に、必ず母に本の読み聞かせをしてもらってた時期があった。それがなければ寝れなくて、膨大な量の睡眠学習を施してもらった。今思うと、大きくなってから受けた学校の授業なんかよりも遥かに「母の読み聞かせ」が僕を作り上げてくれたような気がする。自分じゃ大して本も開かなかったくせに、今こうして文章を書こうと決意したのはそのせいかもしれない。特に記憶に残ってるのは、ハリーポッター。賢者の石(第1巻)から死の秘宝(最終章)まで、全部読んでもらった。映画は何度も何度も見た。ハリーポッターでは、「アロホモーラ!」という呪文が出てくる。「開け!」の呪文で、使ったら鍵が開きます(初級呪文らしいから、ハリーポッターの世界で普通の鍵はどうせ開けられる運命)。

 

僕は、「開く」という言葉が自分のキーワードだと思う。僕はいつも無意識のうちに「閉じる」方向に進んじゃうんだ。初めての人と話すときもそうだし、何か行動を起こすときもそう。どうすれば自分を閉じたまま、都合よく、穏便に、事が進んでくれまいか、なんて。でも本当は、自分を完膚なきまでに曝け出して、みんなに許容してほしい。そしてみんなも、僕に自分を曝け出してほしい。とか願っていたりする。僕の最大の自己矛盾だ。だから、それこそ「呪文」のように、アロホモーラ!開け!ごま!!と、自分自信に杖の先っぽを向けて唱え続けることをやっていく必要があると思う。本性がバレることを恐れず、バカを丸出しにして、失敗にこちらから突っ込んでいく。文章を書くことで、少しは自分を開くことになればいいなぁと思う。

 

木登りのできない猿こそ全ての始まり。

じゃあ、本日最後の話を。人間の祖先は、サルか、サルに近い生き物だったって言われてる。「ヒトはサルから進化した」と思われがちだけど、また違った捉え方もある。ヒトは、木に登りそこねたんだって。地上をうろつく猛獣からうまいこと逃れることができて、安全に木の実を頬張る猿と違い、ヒトの祖先様は木登りのできない落ちこぼれ。もしかしたら絶滅の運命を背負う生き物だった。だから孤軍奮闘、棒を振り回したり、石を投げたり、火を起こしたりたりして命からがら生き残り、そこから文明が発展した(という話がある)。僕はこの「人類の祖先木登り失敗説」を聞いたとき、ものすごい腑に落ちた。腑に落ちた、、というより、安心したって言ったほうがいいかな。だって、「できない」ってすげえ!!と思ったから。

 

現時点で人間とお猿さん、どっちが幸せかなんて計れない。人間の世界はややこしくて気持ち悪いし、こっちのほうが不幸なのかもしれない。だけど、どんどん新しい世界を創り移り変わってきた人間に比べて、猿は長い時を経ても、良くも悪くもほとんど変わらず猿のままでいる。大昔、僕らの祖先様がいとも簡単にスルスルっと木に登って楽しく暮らしていたなら、僕らはいないのかもしれない。環境に適応できるかどうかの話。日本の社会でも、学校の勉強を難なくこなして、芝居掛かった愛想笑いなんかを振りまいて人の輪に上手いこと溶け込めるような人は、それだけで生きていけちゃったりするのかもしれない。できないやつに、「進化する権利」が与えられるんじゃないかなって思う。僕ももちろん、木登りのできない猿だ。環境に適応してたら、わざわざブログなんて書くもんかいな。だから僕は信じてます。木登りのできない猿こそ、全ての始まりだって。とりあえず今日、ブログを始めました。

 

おぼろ

 

https://www.instagram.com/p/Bf91FagF8ii/

木登りのできない猿こそ全ての始まり。おぼろげ坂 より^^